沖縄に来たとき、山と渓谷社のガイドブック「沖縄の山」に掲載されている山は全部、登ろうと思っていた。しかし、その中に国頭村森林公園とか比地大滝という明らかに山でないものが含まれていた。今回の運玉森は、山のようで、そうでないような…。
運玉森は、標高158メートル、ガイドブックには「ハブに注意しよう」と4回も出てくる。沖縄の山は、どこでもハブに注意する必要があるので、言うまでもないのだが、わざわざ何度も記されているので、今まで行くのをためらっていた。行ったこともない地域なので、地図を見ても登山口の場所が全く分からない。車で行くと迷子になりそうなので、ゆいレールの首里駅から歩いていくことにした。なお、運玉森の周辺には、案内板や道標などは一切なかった。
登山日 : 平成28年1月15日
山 名 : 運玉森
読 み : うんたまむい
島言葉では、うんたまもー
標 高 : 158.2m
地形図 : 那覇、与那原
コース地図をGoogle mapにより下記のとおり作成した。なお、コースの赤線はイメージ。上の写真は、「城東小学校」の交差点から「登山口」までのスライド。
画像が10枚あります。スライドしないときは、JavaScriptを有効にしてください。
ゆいレール首里駅---(45)---登山口---(10)---頂上---(10)---登山口---(45)---ゆいレール首里駅
時間は5分単位で繰り上げている。往路は、登山口の場所が分からず、1時間以上探していたので、帰路の時間から推定した。
ヤマケイのガイドブックの地図ではアバウト過ぎて、初めての人が登山口に到達するのは、極めて難しいと思われる。私もガイドブックと道路地図に加え地理院地図を用意して行ったが、登山口の場所が分からず、同じ場所を何度も行ったり来たりした。誰かに聞きたくても行き会う人もいなかった。下の地図の中の番号と、スライドの写真の番号を一致させているので、ご参考にしていただければ、迷うことなく登山口に到達できるだろう。なお、撮影用に持っていった携帯電話の電池が切れてしまい、頂上からの写真は撮影できなかった。自宅を出るときからBluetoothで音楽を聴きながら使用し続けたせいか、電池が消耗してしまったようだ。上記のコース時間には、ゆいレール首里駅から登山口まで45分と記したが、登山口が分からず、現地で1時間以上も さまよっていたので、帰りに歩いた登山口から駅までの時間に合わせた。
私は、⑦を左折せず直進したので、全く違った道を進んでしまった。また、逆方向から歩いてきたときは、⑧を直進してしまい、再び⑦に戻ってしまった。⑨のゲートは、行きは閉まっていたが、帰りは開いていた。なお、車を止める場所がない。ほとんど通行量のないところなので、他の車の妨げにならないように路肩に置くことは出来るが、このサイト上で置いてもいいとは言えないので、自己責任でご判断を。ゲートが開いていれば、直進するとゴルフ場に突き当たって行き止まりとなるが、その手前の右側に2台ほど置ける舗装された空き地がある。そこに置いてもいいかは、何とも言えない。登山口周辺の拡大地図は、⇒ コチラから。なお、この地図は国土地理院の電子国土Webにより作成したもので、コースの赤線はイメージです。
⑧を左折して舗装路を上がっていくと、コンクリートに赤いペンキでマーキングされた階段がある。ここが登山口。ススキや雑木に覆われた登山路を上がって行くと、あっという間に頂上に着く。頂上には刈り込まれた中心付近に四等三角点が鎮座している。ほぼ360度の展望で、北に西原町の町並みから中城湾、遠く与勝半島。東は与那原町の東浜マリンタウンから太平洋。南は知念半島、南城市が開ける。なお、麓のゴルフ場、沖縄カントリーは、昭和40年の開業で、沖縄で初めての民間ゴルフ場だとか。
《運玉義留の逸話》18世紀の初頭、王族や士族の家を、あらかじめ日時を予告してから盗みに入り、奪った金品を貧民へ分け与えた義留(ぎるー)という盗賊がいた。運玉森(うんたまむい)を拠点としていたことから運玉義留(うんたまぎるー)と呼ばれた。運玉義留の逸話は、Wikipediaに詳しく記されていたので、転載させていただいた。
運玉義留が眼をつけたのは首里城の大奥でも一際豪奢な「金の枕」だった。運玉義留はいつものように予告を行い、王の寝所に忍び込んで金の枕を奪うことに成功する。しかし、床下の物音に気がついた王は槍を一突きし、穂先は運玉義留の足を深く貫いていた。その手ごたえに、王と警備の兵は急ぎ床下に向かうが、運玉義留は逃走したあとだった。深手を負ったまま、かろうじて本拠地の運玉森に逃げ込む運玉義留。王は運玉義留を捕えるべく追っ手を運玉森に放つが、運玉義留を慕う農民が多く、彼らは運玉義留の居場所を誰も口にしなかった。また、農民たちは食料を運玉義留に運び、誰しもが彼を匿おうとする。だが、その動きは王の放った追っ手の知るところとなり、運玉義留は完全に包囲されてしまう。運玉義留は濁った沼に身を潜めるが探索を逃れることはできず、死を免れない程の怪我を負う。それでも、運玉義留は追っ手が去るまで水中に隠れきり、そのまま見つかることなく息を引き取った。最期にいたっても、運玉義留はとうとう官憲に捕まることはなかった。遺体は農民らにより発見されるが、役人に引き渡されることはなく、農民らによって手厚く葬られたという。
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頂上へはヤブ漕ぎの道を行く | 1月というのに秋桜(コスモス)が咲く城東小学校前 |